極上文學『こゝろ』③ひとについて
『こころ』について、しつこく分けましたがこれで感想は最後です。まとめて人物についての感想です。
ただ観たのが1回きりのために、せっかくのマルチキャストの比較が出来ずです。そんな個人の感想になります。
記憶力がアレで配信をみてしまうとまた新しく考えちゃって2019年に持ち越してしまいそうなのでわずか1回のアレな記憶なママ描きます間違い多々あると思いますセリフは特にニュアンスですお正月に配信みます(来年の抱負👹)
🌝私🌝
#可愛い#かわいい#kawaii
この可愛さは演出についてで書いたアレですが、加えて役者さん自身の賜物であるときちんと明記しておく必要があると思いまして。
その前のめり前のめりな発声は、ときどき台詞が聞き取りづらく、しかしそれが私の若さをあらわしているようでよかったです。必死な表情が素敵でした。まとめればやはり可愛い(おしまい)。
🌝お嬢さん/奥さん/妻🌝
#みえない#どこにもいない#K#ではなく#描かれない#こころ
お嬢さんについて
こう断言して良いか分からないですが私は(私は!)お嬢さんのこころは最後まで描かれていないし分からないと思います。
「月がきれい」のアレですけれども、お嬢さんは、先生とK、どちらに惹かれていたのか。そもそも、どちらかに惹かれていたのでしょうか?(これは深読みすぎるのでナシで🙅♀️)
先生が結婚を申し込んだのは、お嬢さんでなくその母親です。その時、お嬢さんは舞台のどこにもいない。
そもそものはじまり、先生はお嬢さんに、Kに声をかけてあげるように頼んでいました。その結果、Kの「錆び付いた心が溶けていく」(ニュアンス)それは原作では先生の言葉(に該当するもの)ですが、この舞台ではそれを口にするのはお嬢さんでした。
え〜〜〜〜じゃあそういうこと? でもそれだけにしては説明がつかないくらい、お嬢さんはKに対してもふみこんでいるようにもみえるんだけどな〜〜〜〜〜〜でもこれはもしかしたら役者さんの演技の仕方もあるかもです、どうなんでしょ。
原作は全て先生の視点からですので先生の見方しかできませんが、今回は先生の知り得ないシーンがはさまれています。もちろんそれはKの視点とまではいかないにしても、ですが、それにしても、お嬢さんはあまりに分からない。いや、分からないように"されている"。
(たぶん)。
奥さん/妻について
「友人を1人亡くしたくらいで」
これは原作の言葉を借りるなら、心臓に訴えかける感傷的な言葉。そっくりそのままには受け止めるのは違うけれど、どこか引っかかる言葉です。つまり、Kの自殺は、お嬢さんにとっても本当にショックな出来事であったはずなのに、なぜそれを「くらい」と言ってしまうのか。
おそらく彼の自殺を、自分と先生の婚約と全くの無関係とは"思わなかった"からなのではないでしょうか。確かに先生ほどにはその間にあるものを知りえないし、分かりえないのかもしれないけれど、妻は、先生が思うほどに何も知らない訳じゃない。
その証拠に、最後、私が奥さんのところへ駆け込んで行った時、奥さんはいつかこうなる日が来ると思っていたと言うのです(付け加えられたこのシーンについて。すきです)。
1点の曇もなく、真っ白であってほしいと願った先生、先生は、妻のこともわかっていなかった。みえていなかった。いや、みようとしなかった。
それこそが「描かれない」ということの正体であると思いました。
白石さん(だけ特設)
▷妻にたいして、原作からもの静かなイメージをしていましたので、なんの情緒もない言い方をしますと明るくて(もっと適切な言葉があるはず)(もちろんちゃんと(?)悲しそうなのだけど、すごく明るく感じる)ではじめびっくりしました。
けれど、白石さんの妻の明るさをみるとき、確かに1点でさえ影を落としたくない、真っ白であってほしいと、その気持ちが分かるような気がしてしまいます。変わってしまった先生と対照的な、変わらない奥さんの明るさ。それはつまり残る幼さというか、あの〜〜〜〜〜〜え〜〜〜〜〜〜〜〜っとね、あの、あの感じです(伝わって)。白石妻素敵でした! そしてあの感じ(伝わって)はまたお嬢さんにぴったりで素敵でした(伝わって〜〜〜〜〜)!!!
🌝K🌝
#まってね#ちょっとまってね#正直にいうね
かっこよすぎるんだわ。
すみませんほんきで怒ってる!!!!!! ほんとにキレてる!!!! どうしてくれんの!!! だってKに対してかっこいいって、いや、えっ、ま、ま、まじか〜〜〜〜〜〜〜〜Kにたいしてこんな感情をもつ日、きちゃうのか〜〜〜なんて……いやまあしょうじきKに対してなのか演じられた松井勇歩さんに対してなのか(寄り寄り)いやけれどとぜんぶ含めてKなので言いま〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜すかっこよすぎなんだわまじで!!!!!! も〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!
原作では、訳の分からぬオブ分からぬトップオブトップがまさしくKで、でも舞台でその訳分からんさが省かれた結果、ただひたすらにかっこよくてお嬢さんに惹かれていくのがただひたすらに可愛いくて……ってだめだすきむり(🤦♀️)。
はじまり、海辺で先生と私が出会うシーン。
はい来ました〜〜〜〜〜〜問① なぜ私はこの雑踏の中で先生に惹かれたのか? 答)先生は西欧人を連れていて、それは当時(略)などど脳裏を駆け巡る思ひ出と、Kを演じる人が西欧人も演じるのねって思っていたので「私」の言葉を聞き逃しました〜〜〜〜〜〜〜ってお前アホか💢 思い出に浸っとる場合か💢💢
ただ何となく西欧人の描写ではないようなきがしたことと吾輩の「と思われた」だかなんか(これも忘れちゃった😬)、つまり「私」は「見た」のでなく、「見えた」ように「思われた」。何を?
Kがはじめから舞台にいるのは、まさに舞台ならではの表現で、これがドラマだったりしたら幽霊って言っちゃいますが、この舞台においてなら、ただ単に幽霊というのはあまりに情緒が無い。 情緒が無いってなんだ???
思いつく選択肢は①K自身 ②先生のこころ ③その他 づてぜんぜん思い浮かばないじゃんかめちゃくちゃ当たり前体操じゃんか🤸♀️ なのに分けちゃうなんで!?好きだからだわ💢💢 好きな人のことは延々と考えていたいんだわ💢💢💢
①K自身
この説のいちばんの理由はお墓のシーン。
先生がお墓参りするシーンは、Kが直立不動の墓石になります(うまくない? やばない?)。
その前で先生が「お前は何も言ってくれないのか」と崩れ落ちるとき、Kは自分の本を開いて先生に見せるのです
やっば…
でも先生はうつむいてしまっているのでそれを知らない。
やっっっっば……
だからKは本を閉じてしまう…って、
そんなのやっっっっっっっばいじゃん何なのまじで無理じゃんそんなの!!!!
先生っていっつもそうで先生はみないしみえない、先生、先生、先生〜〜〜〜〜〜本当、あまりに象徴的すぎるシーンすぎるしまじでしんどすぎる。
あとはあれ、最後服を脱いで色に染まるシーン、Kは戸惑っているようにみえました。それに先生を目で追いかけていたりするのにも、明らかな意思を感じられます。それならばやはりK自身?
②先生のこころ
先生のこころの中のK…というか、先生のこころにはいつもKがいた…っていやいやいやいや言い方えっ言い方😡😡
罪の意識だったり徹底的なまでにやられてしまった劣等感(ここまではわかる)それから何か(もろもろ)。妻の顔を見る度にKがちらつくともいっていますが、そのようないろいろなものをまとめてのK。つまりこちら、あくまでそれをビジュアル化ってだけでKがそこにいるわけじゃない説です。
先生の言葉が反芻されるのはつまりそういうことで、Kのことを思って言ったから。それをみせている、ということなのかもしれないしそうじゃないかもしれな〜〜〜〜〜いわかんない延々と考えてるし考えていたい。
③その他
何かもう何か(投げやり)
これはさいごの自決のシーン。
思いっきり(語彙力ゼロの)ネタバレはじめます。このシーン、まずKが先生をうしろから抱きしめます。すると先生はその手をとって、自分の本に重ねる。そして掲げられたその本が閉じられると、イチョウがふってきて、その2人を飲み込んでしまう。(伝わらない)ネタバレおしまいです。
このシーンのKをかんがえます。
例えばもし①K自身とするなら? Kは止めようとしたようにも見えます。抱きしめるというより引き止めるためのハグ(結局ハグいう😬)。だから先生はKの手を取った、止めないでくれって。いやこれ文字にしたダサさのやばさやばくない?
②先生のこころのKだとするなら? 先生は完全に捕えられてしまったとも解釈できます。今まで妻のことをおもって何とか耐えてきたものに負けてしまった。
そして③。②と似ているけれど、Kに対しての思いでなく、つまりKが捕えられてしまったもの自体。それに先生自身も捕えられてしまった。Kをなぞる行動に殉死という言葉を考えましょう先生はなにに捕えられたのか。Kの姿をとった何か。なんだろ〜〜〜〜〜〜〜〜!
Kのさいご、掲げられた本。それが最後のページだったのが泣けました。
先生どうだっけってみてな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜いってえっまじでなぜだ(真顔)
🌝先生🌝
#指先#仕草#説得力#つまり#えろい#やばい#すみません#すみませんけども
えろすぎやしないだろうか?
はいここでもう一度、問題です。私は、なぜ先生にあんなにも惹かれたのか?いやだから惹かれたもんは惹かれたんだわ理屈じゃないんだわってね、大正解。
いやもちろん原文を探せば幾らでも答えは用意されていますが、この舞台におけるその答えはただひとつなので、あ〜〜〜〜すみません先に断わっておきますがその他はバツつけさせていただきます。ここ大事です、よく聞いてね。
いいですか? 先生の落としたメガネを拾った「私」は、それについた砂を払いおとして渡します。すると先生は、君も砂がついていますよって(いやマジか)ここですか? ってあわあわする「私」(これマジか)すると、ここ、って、払ってあげる先生いや、手は触れない、でもその指、手、うごき、き、き、き、
きれ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっろい。
つまりこれ(断言)。
異性と抱き合う前段階(原文ママ)として私のもとにきたっていうんだから、それぐらいの説得力はなくちゃいけないんです。それぐらいの説得力があるんです。つまりやばい。しかしやばい。
つまり藤原祐規さん、やばい(すみません)(本当に申し訳ない)(あとは配信でちゃんとみます)(すみません)。
先生の今と昔の描かれ方がわかりやすく好きでした。
前半の先生の平淡な語り口調。恋は罪悪だと、3回ぐらい繰り返して、そして、神聖なものですよ、というその、なんというか、その言葉の温度(ヴェッ)。どんな気持ちで言ったのか考えるだけでもう(ヴェッ)っていうかやばい本家(?)〜〜〜〜〜どうしよ! みたいなテンションになったのですが、その後に、妻に対して子どもは出来やしない、「罰だからさ」という時の温度、いやなんと言ったら良いのか。あまりに冷たいそこ意地の悪い笑い方が、ああこうして言うのか、と、あの、思いました…(?)。
私を挟んで、奥さんと先生は、幸福な一対であるべきだと言うのが印象的な演出で、まるで弾糾するかのような言い方で、確かに奥さんは私に向かって訴える。なのにどうして? と。先生は私に訴えかける、あなただけに伝えると。私を挟んで会話しないで〜〜〜〜〜(典型的ヒロインちゃん🙆♂️)
後半、学生時代の先生のはじまりは、寝転んでいるシーンからはじまります。このギャップ💆♂️
当時の学生の意識というのが私にはいまいち(かなり)分からず、実際にやばいエリートの自意識というのも分からんのですね。なので、そこで交わされる論も、ん〜〜〜って感じだしK…先生……あ〜〜〜〜〜〜〜ね って感じの理解なのですが(やはり案件)、この舞台、とにかく先生が生き生きとしている。その生き生さは、すごく分かりやすいものなんです。つまり先生は、寝転んじゃうし、声でかいし、頭下げるし、満足そうに笑っちゃうんです(Kを自分の下宿先にひきこんで、よしよしと満足気ににやつくのが本当に辛い)。
現代を生きる私たち、ってだからすぐそうやって主語をでかくするの良くな〜〜〜〜いピピーッ🚨🚓 いや私です、個人の私にとっての現代の感覚で理解しやすい形、方法で、前半と後半の先生を描き、またKとの対比を描かれていたように! 思いました!そう感じただけ!
Kへの嫉妬でおかしくなっていく先生というのはまたすごくて、これは地の文で書かれていたために割と流してしまっていたのですが(エペペ😉)2人で旅行へ行ったときのあの先生。
後ろからKをつかみ、ここから突き落としたらと。そしてKの言葉に飛び退く先生と。もうね、あのね、まじでね、藤原さん。
観て。
読むのが嫌になるくらい、原作は先生の思いを丁寧に丁寧に描いていくので(先生の手紙だから当然ですが)、比べれば当然、舞台はそれをコンパクトにまとめています。
けれど、その心情の変化を、全く違和感なく、逆に入れ込んでしまうほどにみせることができるのは、脚本演出にくわえて、藤原さんの演技なんです。でも細部覚えてないんです。だから観て。
🌝まとめ🌝
極上文學、絶対につぎの作品も観にいきます。
千秋楽はもう(とっくに)迎えてしまいましたが、この作品がより多くの人に届きますように(配信ありますそうです🙆♂️)、この作品に携わった方々のさらなるご活躍と、またこのシリーズのさらなる発展を心から願います!
本当に素敵な作品でした。ありがとうございました。