極上文學『こゝろ』③ひとについて
『こころ』について、しつこく分けましたがこれで感想は最後です。まとめて人物についての感想です。
ただ観たのが1回きりのために、せっかくのマルチキャストの比較が出来ずです。そんな個人の感想になります。
記憶力がアレで配信をみてしまうとまた新しく考えちゃって2019年に持ち越してしまいそうなのでわずか1回のアレな記憶なママ描きます間違い多々あると思いますセリフは特にニュアンスですお正月に配信みます(来年の抱負👹)
🌝私🌝
#可愛い#かわいい#kawaii
この可愛さは演出についてで書いたアレですが、加えて役者さん自身の賜物であるときちんと明記しておく必要があると思いまして。
その前のめり前のめりな発声は、ときどき台詞が聞き取りづらく、しかしそれが私の若さをあらわしているようでよかったです。必死な表情が素敵でした。まとめればやはり可愛い(おしまい)。
🌝お嬢さん/奥さん/妻🌝
#みえない#どこにもいない#K#ではなく#描かれない#こころ
お嬢さんについて
こう断言して良いか分からないですが私は(私は!)お嬢さんのこころは最後まで描かれていないし分からないと思います。
「月がきれい」のアレですけれども、お嬢さんは、先生とK、どちらに惹かれていたのか。そもそも、どちらかに惹かれていたのでしょうか?(これは深読みすぎるのでナシで🙅♀️)
先生が結婚を申し込んだのは、お嬢さんでなくその母親です。その時、お嬢さんは舞台のどこにもいない。
そもそものはじまり、先生はお嬢さんに、Kに声をかけてあげるように頼んでいました。その結果、Kの「錆び付いた心が溶けていく」(ニュアンス)それは原作では先生の言葉(に該当するもの)ですが、この舞台ではそれを口にするのはお嬢さんでした。
え〜〜〜〜じゃあそういうこと? でもそれだけにしては説明がつかないくらい、お嬢さんはKに対してもふみこんでいるようにもみえるんだけどな〜〜〜〜〜〜でもこれはもしかしたら役者さんの演技の仕方もあるかもです、どうなんでしょ。
原作は全て先生の視点からですので先生の見方しかできませんが、今回は先生の知り得ないシーンがはさまれています。もちろんそれはKの視点とまではいかないにしても、ですが、それにしても、お嬢さんはあまりに分からない。いや、分からないように"されている"。
(たぶん)。
奥さん/妻について
「友人を1人亡くしたくらいで」
これは原作の言葉を借りるなら、心臓に訴えかける感傷的な言葉。そっくりそのままには受け止めるのは違うけれど、どこか引っかかる言葉です。つまり、Kの自殺は、お嬢さんにとっても本当にショックな出来事であったはずなのに、なぜそれを「くらい」と言ってしまうのか。
おそらく彼の自殺を、自分と先生の婚約と全くの無関係とは"思わなかった"からなのではないでしょうか。確かに先生ほどにはその間にあるものを知りえないし、分かりえないのかもしれないけれど、妻は、先生が思うほどに何も知らない訳じゃない。
その証拠に、最後、私が奥さんのところへ駆け込んで行った時、奥さんはいつかこうなる日が来ると思っていたと言うのです(付け加えられたこのシーンについて。すきです)。
1点の曇もなく、真っ白であってほしいと願った先生、先生は、妻のこともわかっていなかった。みえていなかった。いや、みようとしなかった。
それこそが「描かれない」ということの正体であると思いました。
白石さん(だけ特設)
▷妻にたいして、原作からもの静かなイメージをしていましたので、なんの情緒もない言い方をしますと明るくて(もっと適切な言葉があるはず)(もちろんちゃんと(?)悲しそうなのだけど、すごく明るく感じる)ではじめびっくりしました。
けれど、白石さんの妻の明るさをみるとき、確かに1点でさえ影を落としたくない、真っ白であってほしいと、その気持ちが分かるような気がしてしまいます。変わってしまった先生と対照的な、変わらない奥さんの明るさ。それはつまり残る幼さというか、あの〜〜〜〜〜〜え〜〜〜〜〜〜〜〜っとね、あの、あの感じです(伝わって)。白石妻素敵でした! そしてあの感じ(伝わって)はまたお嬢さんにぴったりで素敵でした(伝わって〜〜〜〜〜)!!!
🌝K🌝
#まってね#ちょっとまってね#正直にいうね
かっこよすぎるんだわ。
すみませんほんきで怒ってる!!!!!! ほんとにキレてる!!!! どうしてくれんの!!! だってKに対してかっこいいって、いや、えっ、ま、ま、まじか〜〜〜〜〜〜〜〜Kにたいしてこんな感情をもつ日、きちゃうのか〜〜〜なんて……いやまあしょうじきKに対してなのか演じられた松井勇歩さんに対してなのか(寄り寄り)いやけれどとぜんぶ含めてKなので言いま〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜すかっこよすぎなんだわまじで!!!!!! も〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!
原作では、訳の分からぬオブ分からぬトップオブトップがまさしくKで、でも舞台でその訳分からんさが省かれた結果、ただひたすらにかっこよくてお嬢さんに惹かれていくのがただひたすらに可愛いくて……ってだめだすきむり(🤦♀️)。
はじまり、海辺で先生と私が出会うシーン。
はい来ました〜〜〜〜〜〜問① なぜ私はこの雑踏の中で先生に惹かれたのか? 答)先生は西欧人を連れていて、それは当時(略)などど脳裏を駆け巡る思ひ出と、Kを演じる人が西欧人も演じるのねって思っていたので「私」の言葉を聞き逃しました〜〜〜〜〜〜〜ってお前アホか💢 思い出に浸っとる場合か💢💢
ただ何となく西欧人の描写ではないようなきがしたことと吾輩の「と思われた」だかなんか(これも忘れちゃった😬)、つまり「私」は「見た」のでなく、「見えた」ように「思われた」。何を?
Kがはじめから舞台にいるのは、まさに舞台ならではの表現で、これがドラマだったりしたら幽霊って言っちゃいますが、この舞台においてなら、ただ単に幽霊というのはあまりに情緒が無い。 情緒が無いってなんだ???
思いつく選択肢は①K自身 ②先生のこころ ③その他 づてぜんぜん思い浮かばないじゃんかめちゃくちゃ当たり前体操じゃんか🤸♀️ なのに分けちゃうなんで!?好きだからだわ💢💢 好きな人のことは延々と考えていたいんだわ💢💢💢
①K自身
この説のいちばんの理由はお墓のシーン。
先生がお墓参りするシーンは、Kが直立不動の墓石になります(うまくない? やばない?)。
その前で先生が「お前は何も言ってくれないのか」と崩れ落ちるとき、Kは自分の本を開いて先生に見せるのです
やっば…
でも先生はうつむいてしまっているのでそれを知らない。
やっっっっば……
だからKは本を閉じてしまう…って、
そんなのやっっっっっっっばいじゃん何なのまじで無理じゃんそんなの!!!!
先生っていっつもそうで先生はみないしみえない、先生、先生、先生〜〜〜〜〜〜本当、あまりに象徴的すぎるシーンすぎるしまじでしんどすぎる。
あとはあれ、最後服を脱いで色に染まるシーン、Kは戸惑っているようにみえました。それに先生を目で追いかけていたりするのにも、明らかな意思を感じられます。それならばやはりK自身?
②先生のこころ
先生のこころの中のK…というか、先生のこころにはいつもKがいた…っていやいやいやいや言い方えっ言い方😡😡
罪の意識だったり徹底的なまでにやられてしまった劣等感(ここまではわかる)それから何か(もろもろ)。妻の顔を見る度にKがちらつくともいっていますが、そのようないろいろなものをまとめてのK。つまりこちら、あくまでそれをビジュアル化ってだけでKがそこにいるわけじゃない説です。
先生の言葉が反芻されるのはつまりそういうことで、Kのことを思って言ったから。それをみせている、ということなのかもしれないしそうじゃないかもしれな〜〜〜〜〜いわかんない延々と考えてるし考えていたい。
③その他
何かもう何か(投げやり)
これはさいごの自決のシーン。
思いっきり(語彙力ゼロの)ネタバレはじめます。このシーン、まずKが先生をうしろから抱きしめます。すると先生はその手をとって、自分の本に重ねる。そして掲げられたその本が閉じられると、イチョウがふってきて、その2人を飲み込んでしまう。(伝わらない)ネタバレおしまいです。
このシーンのKをかんがえます。
例えばもし①K自身とするなら? Kは止めようとしたようにも見えます。抱きしめるというより引き止めるためのハグ(結局ハグいう😬)。だから先生はKの手を取った、止めないでくれって。いやこれ文字にしたダサさのやばさやばくない?
②先生のこころのKだとするなら? 先生は完全に捕えられてしまったとも解釈できます。今まで妻のことをおもって何とか耐えてきたものに負けてしまった。
そして③。②と似ているけれど、Kに対しての思いでなく、つまりKが捕えられてしまったもの自体。それに先生自身も捕えられてしまった。Kをなぞる行動に殉死という言葉を考えましょう先生はなにに捕えられたのか。Kの姿をとった何か。なんだろ〜〜〜〜〜〜〜〜!
Kのさいご、掲げられた本。それが最後のページだったのが泣けました。
先生どうだっけってみてな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜いってえっまじでなぜだ(真顔)
🌝先生🌝
#指先#仕草#説得力#つまり#えろい#やばい#すみません#すみませんけども
えろすぎやしないだろうか?
はいここでもう一度、問題です。私は、なぜ先生にあんなにも惹かれたのか?いやだから惹かれたもんは惹かれたんだわ理屈じゃないんだわってね、大正解。
いやもちろん原文を探せば幾らでも答えは用意されていますが、この舞台におけるその答えはただひとつなので、あ〜〜〜〜すみません先に断わっておきますがその他はバツつけさせていただきます。ここ大事です、よく聞いてね。
いいですか? 先生の落としたメガネを拾った「私」は、それについた砂を払いおとして渡します。すると先生は、君も砂がついていますよって(いやマジか)ここですか? ってあわあわする「私」(これマジか)すると、ここ、って、払ってあげる先生いや、手は触れない、でもその指、手、うごき、き、き、き、
きれ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっろい。
つまりこれ(断言)。
異性と抱き合う前段階(原文ママ)として私のもとにきたっていうんだから、それぐらいの説得力はなくちゃいけないんです。それぐらいの説得力があるんです。つまりやばい。しかしやばい。
つまり藤原祐規さん、やばい(すみません)(本当に申し訳ない)(あとは配信でちゃんとみます)(すみません)。
先生の今と昔の描かれ方がわかりやすく好きでした。
前半の先生の平淡な語り口調。恋は罪悪だと、3回ぐらい繰り返して、そして、神聖なものですよ、というその、なんというか、その言葉の温度(ヴェッ)。どんな気持ちで言ったのか考えるだけでもう(ヴェッ)っていうかやばい本家(?)〜〜〜〜〜どうしよ! みたいなテンションになったのですが、その後に、妻に対して子どもは出来やしない、「罰だからさ」という時の温度、いやなんと言ったら良いのか。あまりに冷たいそこ意地の悪い笑い方が、ああこうして言うのか、と、あの、思いました…(?)。
私を挟んで、奥さんと先生は、幸福な一対であるべきだと言うのが印象的な演出で、まるで弾糾するかのような言い方で、確かに奥さんは私に向かって訴える。なのにどうして? と。先生は私に訴えかける、あなただけに伝えると。私を挟んで会話しないで〜〜〜〜〜(典型的ヒロインちゃん🙆♂️)
後半、学生時代の先生のはじまりは、寝転んでいるシーンからはじまります。このギャップ💆♂️
当時の学生の意識というのが私にはいまいち(かなり)分からず、実際にやばいエリートの自意識というのも分からんのですね。なので、そこで交わされる論も、ん〜〜〜って感じだしK…先生……あ〜〜〜〜〜〜〜ね って感じの理解なのですが(やはり案件)、この舞台、とにかく先生が生き生きとしている。その生き生さは、すごく分かりやすいものなんです。つまり先生は、寝転んじゃうし、声でかいし、頭下げるし、満足そうに笑っちゃうんです(Kを自分の下宿先にひきこんで、よしよしと満足気ににやつくのが本当に辛い)。
現代を生きる私たち、ってだからすぐそうやって主語をでかくするの良くな〜〜〜〜いピピーッ🚨🚓 いや私です、個人の私にとっての現代の感覚で理解しやすい形、方法で、前半と後半の先生を描き、またKとの対比を描かれていたように! 思いました!そう感じただけ!
Kへの嫉妬でおかしくなっていく先生というのはまたすごくて、これは地の文で書かれていたために割と流してしまっていたのですが(エペペ😉)2人で旅行へ行ったときのあの先生。
後ろからKをつかみ、ここから突き落としたらと。そしてKの言葉に飛び退く先生と。もうね、あのね、まじでね、藤原さん。
観て。
読むのが嫌になるくらい、原作は先生の思いを丁寧に丁寧に描いていくので(先生の手紙だから当然ですが)、比べれば当然、舞台はそれをコンパクトにまとめています。
けれど、その心情の変化を、全く違和感なく、逆に入れ込んでしまうほどにみせることができるのは、脚本演出にくわえて、藤原さんの演技なんです。でも細部覚えてないんです。だから観て。
🌝まとめ🌝
極上文學、絶対につぎの作品も観にいきます。
千秋楽はもう(とっくに)迎えてしまいましたが、この作品がより多くの人に届きますように(配信ありますそうです🙆♂️)、この作品に携わった方々のさらなるご活躍と、またこのシリーズのさらなる発展を心から願います!
本当に素敵な作品でした。ありがとうございました。
極上文學『こゝろ 』②演出について
感想②です。個人の感想です。個人というのはミーハーです。どれくらいのミーハーかといえば、「1+1=?」という問題を考え、「2です!」と立ち上がって答えるぐらいのレベルのミーハーです。
そんなミーハーにとって、演出脚本についての大きな問いは『こころ』をどう舞台へすくいあげてみせるのかということでした。かっこつけようとしないで(つけられてない)言いま〜〜〜〜〜〜〜すあの長い話をたったの90分にどうおさめんのよって(いやこれミーハーとか言わずにみんな思うこと🤦♀️)
長い小説としましたが、もし仮に、『こころ』について、長い、長すぎる、と、だから端的に教えて欲しいと、(🙅♀️ぜんぜん長くない 🙅♀️そんなこと聞かれない)『こころ』ってどんな話? と聞かれれば、「三角関係の話」と答えるし、「結果どうなったの?」と聞かれれば「裏切られた方は自殺して裏切った方も自殺した」と答えます。でも、それだけ? とがっかりされたならば、CiNii Articlesをひらいて「夏目漱石 こころ」と検索してみせます。
いやいやなんでよってレベルのヒット数、決して数字信仰ではないですが、タイトルを見るだけで『こころ』は(いや分からんですけれども)、ありとあらゆる領域、ありとあらゆる観点から研究されていることが分かります。そこにはそれだけの要素が詰まっているのです。
仮に、『こころ』を原作にしました、という舞台ならばどうでしょう。けれどもこれは、「極上文學」とわざわざ名乗りを上げている。
「文学」とは? 分からないですが、少なくともそれはつまりあの長い"話"(=ストーリー、展開、物語)をどうおさめるか、ではない。あの要素たち(=私には訳の分からんものたち)を、どこまで、そしてどのように、沢城さんのお言葉を借りていえば、「文学に馴染みのない人」(🙋♀️ハイッ)を相手にみせるのか。
などと偉そうにダラダラと書き連ねて、じゃあどうだったのかといえば、分かりません。そのままの意で分からんでした。だってそもそも「要素」というのが私にとっては訳分からんのものなのでどうなっていたかなんて(やばいやばい)誰か教えてください(案件)。
なのでここからは()つき。
自分の知っている観点は、教科書(うろ覚え)とジェンダー(聞きかじり)という語るにあまりに危険な状態なので。
ひとつ耳に引っかかったことがあって、それはKの、"女の歩く速度が男の2分の1"(ニュアンスです。うろ覚え🙇♀️)という(感じ)の言葉。
このセリフは、Kとお嬢さんが夜道を2人で歩くシーンであり、それはKがはじめてお嬢さんという"異性"にはじめて出会うシーンです。彼の語る言葉から滲む、はじめての驚きと戸惑い、「月がきれいですね」などというパワーワードに、甘い気持ちで流してしまいそうになりますし、お嬢さんのあの服、あれは早く歩けない構造になっていますので、それは実際にそうだったのかもしれません。
けれど、女は、とくくる虚しさも含めて、どこか引っかかる。
その引っかかり具合が、上手いなあと思いました。あれは原作には無い言葉ですが、おそらくそれに当たる(であろう)言葉を探してみると、ものすごい勢いで「ん?」となる。最近世間を賑わすアレに通じる「ん?」です。つまり怒りと呆れ。物語に身を置くことを拒んでしまうほどのそれ。ですのでただ物語としてみせたいのならば、それは消してしまえば良いと思います。けれど、「そんな時代は無かった」ではなく、「こんな時代があった」というのをそのままに示すことは意味があると思うし、何よりそれもまたひとつの要素だと思うのです。
私が分からないだけで、きっともっとあると思いますが、優しく分かりやすく、でもどこかに引っかかるような、割り切れなさを残すその方法が、個人的にはいいなと思いました。
あとはまとまらなさすぎるので、以下特に印象に残る(引っかかり取っかかり)演出についてメモ✍
キーワードは、「猫」「月がきれいですね」「イチョウ」「裸」。
🌝「猫」🌝
#夏目漱石#吾輩は#可愛いの権化#猫である
はじまるまえから具現師さんがロビーやら客席やらで「何か」として「何か」をしてる、ということは聞いていましたが、答えは「猫」でした🐈 それも"本気"の猫(とは)。
夏目漱石、猫、と来れば全員の頭の中には同じタイトルが浮かんでいて、だからもう開演前のアナウンスで「吾輩」を聞いた瞬間のあの歓声(笑)。まじ半端なかったッスよね(大嘘)。
とはいえ「語り師」である「吾輩」に対して、『こころ』の世界に突如現れた「猫」、とではなく、来るかな? という期待に応えて現れた「猫」と、観客(🙋♀️)の受ける印象がさりげなくすり変えられていたのは事実です。
では「猫」、その意義は?
答え 可愛い🐈(全肯定)
語り師である沢城千春さん(私が観た回です)。沢城さん、溢れ出る"あの"感じが個人的にも本当に好きですが、おそらく沢城さんのファンなのだろうなと思う方々をお見かけました。そして他の回にももちろんその日だけの「語り師」さんを理由に観に行く方々はいるはずですると語り師さんが"可愛い"というのはとても有意義であると思うわけです(早口)
さすがに猫耳やら「にゃん♡」やらはアレですのでそういうことではないと前置きをしつつ、あのつんつるてんな衣装に添えられるしっぽはやはり可愛いし、何より、いやそもそも、大前提となる猫という設定の圧倒的な"可愛い"パワーたるや、猫にまつわる全ての概念は愛であるわけです。
ちなみにこの「猫」は語り師だけでなく、読み師である「私」をも可愛くしてしまうという偉大なる猫ちゃまであらせられます。
「私」の可愛さとは? 原作は前半と後半で語り手が変わりますが、前半は「私」(もう良い大人)が、先生との思い出を振り返る構成になっています。この「もう良い大人」(勝手な認識)とは、言い換えればこの「私」にとって、先生との出会いから別れは思い出ということで、もうそこにはかなりの距離があるわけです。だからこそうまれる批判的な気持ち(etc)=可愛くないもの(案件式)。
しかし語り師(猫)がその語りを担うことにより、「私」は"過去を振り返る"ではなく"今を生きる"「私」となり、先生と出会い、惹かれ、純粋にそして残酷に物語を求める。若さにあふれるあまりに前のめりな「私」=可愛い=好き(解決)。「私」から思想的なハナシなどを浄化(やはりいちいち案件…)することで、その展開を、より"物語的"にみせているような印象です。
浄化された彼らはどこに?それはさすがの猫ちゃま、「吾輩」が引き受けます、しかしさすがの「猫」ちゃま、「難しいことは分からぬ」(いやもうこれ天才?)(それとも案件?)
「猫」ちゃまの語る、「人間は」という、自分と異なる種族を一括りにする語り方。Kの"女は"の虚しさを思い出しますが、しかし何とも対比的に、虚しさの欠片もないこの語り口調。それ即ち「猫」故に。
極めつけはこのラスト。分からない、だが「嫌いにはなれない」。ハイ陥落。いやまじ猫ちゃま。
🌝「月がきれいですね」🌝
#客寄せパンダ#匂わせ注意報
⚠️パンダに敵意はないです
本当かどうかはさておき、現代においてもはや使い古されたともいえるほど、この言葉、このフレーズのみを切り抜き都合良く使われるのが本当に嫌で嫌で仕方が無かったガチ厄介、まあ言い換えればミーハーがそんなふうにのたうち回れるほどにこの世の中に浸透した「I love you」は即ちパンダ🐼。
作中、奥さんが何度も繰り返す、「今夜は月が綺麗ねえ」。匂わせてんな? と思っていますと、Kとお嬢さんが2人で夜道を歩くシーンです。2人は客席をぐるりとまわったあとに、舞台へあがり、そして夜空を見上げます。
すると、お嬢さんの白くてつややかな肌が照らされて。うっとりと月を見上げるお嬢さんは、本当に吸い寄せられてしまうほど綺麗で、「綺麗だ」と、あのKがおもわず零してしまうのもわかってしまう、のだけどお嬢さんは、「え?」と聞き返して、だからKは言葉に詰まってしまう。そして、「月が、きれいですね」というのです。
するとお嬢さんは、「ええ、本当に」と、ゆっくりと丁寧にうなずいて、って、
いやもうだからそういうの大好きじゃん?
まーーーーーーーじでまじでまじでまじで二次創作読むようなオタク(🙋♀️ハイッ)は好きに決まってんのね、いやこれまじね、いやあの猫ちゃまあのまじこれまじだからまって嫌いにならんで(土下座)。
言うなればこれはファンサービス。ほ〜れ好きやろ? っていや好きですけど💢💢 あまりに文脈が完璧すぎだしKに言わしめてしまうの完璧すぎだしKだから言えんのだしまじであの状況だからだしまじでもうあのだからつまりあの大好きです💢💢💢💢💢
は〜〜〜〜〜〜〜ファンサに殺される…ともうひとつ、もうひとつ、それはお嬢さんのこころに意識を向けさせる……効果が……………ない??? ないの?????(息絶えだえ)あって〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!
こちら側はその会話の意味を、つまり愛の告白とその受理を勝手に読み取って尊い…って合唱しかけてふと、この会話にそんな意味があったのかって我に返るんです。
Kの言葉は確かなそれ、でも、お嬢さんのそれは? お嬢さんは、誰が好きだったのか。嫌いな男性と夜に回り道しようなんて言わないでしょうから、好意は持っていたとは言えても、その好きは何の好き? エッ少女漫画とみせかけての何だこれ??
思い返すのは繰り返される、月が綺麗ねえという言葉。あれ、先生は答えたんだっけ? 覚えてな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜いなんで覚えてないの〜〜!!!!!!!!!!!!!!!
🌝「イチョウ」🌝
#銀テープ#花言葉#ぱっくんちょ#サプライズ#視覚的プレゼント#今更だけど#あれって#イチョウ#だよね?
イチョウの黄色は見上げた月の色でありますが、その花言葉は鎮魂なのだと、願いと共にお嬢さんから手渡されるイチョウ(盛大なるフラグ)であり、客席に舞い降りる(銀テープならぬ)イチョウであり、そして最後、先生とKを飲み込むイチョウであるのです。そして回収される、"花言葉は鎮魂"。
つまり、あまりに完璧ということ。
先生の最後をあのような形でみせるというのは舞台ならではの方法と思いますが、同時にあんなにも美しい形でみせてしまって良いのかなとも思いました。それぐらいに画としてあまりに美しすぎて、そうだ、このためだった、と思ってしまうほどの画だったので。でもこれは客席に座って見上げていないと分からない感覚と思います。映像の方がよりその美しさは見えるかもしれないけれど、それを全身に体験できるのは舞台だけなのでやっぱりこれだけでもう観て良かったなって思っちゃうっていうかなんていうか(以下ループ)
はっと息が止まるほどの衝撃に、そのあとの「吾輩」の台詞が聞こえなかったのですが、それはご愛嬌で(いや配信で🙆♀️)
🌝「裸」🌝
#釣りタイトル#素肌#こころ#絵の具#女性と思ってたら男性だった#びっくりした
上半身を脱いで色をつけていくあのシーンのことです。
極上文學「こゝろ」に平野良「見目麗しい男子たちのあんな姿やこんな姿が」 - ステージナタリー
をそのまま参照に(Twitterのはりかたわからんでした)
これはどう足掻いても、そのインパクトです。平野先生のお言葉と、それがまさしく(釣り)記事タイトルになっているのがその証拠。観客に対しても、エッと食いつかせる釣りのエサ。
そして考えさせられます。
なぜ脱ぐのか。
……というのは、いったん冷静になって、原作で先生と「私」との出会いの場が海だったことを思い出してみたりするわけです。
海という場は、赤の他人に肌をさらすことを当たり前にしてしまう異常な場ではありますが、その無防備なまでにさらされた肉体と、かたく深くとざされたこころの対比、というのが、教科書的な観点からの読み取り(うろ覚え)だったはず(?)。
つまり、原作でははじまりに提示された肉体とこころという対比を、この舞台ではクライマックスに持ってきたということであり、服を脱ぐということは文脈に乗っ取った演出である(と自分を納得させてみる)(まじでびびりまくったので)(あくまで個人の意見)(もっと素直な解釈があるしそっちの方が正解と思います)(知らんですが🙅♀️)。
本題は、塗料演出(塗料は絵の具じゃないかもですがそれはノリ🙅♀️)についてです。
あの色は"想いの色"と明瞭な答えがありますが、私はそれを"言葉以外の"こころと解釈しました。
先生の語る言葉があります。そして、その言葉の意味を超えて伝わるこころがありました。語られない言葉があります。そして、語られないままに伝わってしまうこころがありました。
言葉にならない、言葉にできない、言葉を与えられていない、こころ。
小説は言葉からなるもので、だからこの『極上文學』においても本の「言葉」は非常に大切にされていますが、こころはどうなのでしょうか。私は🎩ファンなので、ならって言葉の前にこころがあると思うしそれを大事に思いますけれども(適当)、言葉に(しないのかできないのか何なのか分からないけれど)ならないこころを、無理やり言葉に落とし込むのではなく、そのまま言葉以外の形、つまり色をもってあのように視覚的に"みせる"というのが、舞台ならではの方法(ならではって言いたかっただけ😬)と思いました(言えた😉)
そしてそれらがまわりの人々のさらされた肉体(奥さんは手というさらされた肉体)を染めあげていくというのは、なんとも抽象的にみえて実は具体的な描写のようにも思いました、とかとかいって! なんてぐるぐる考えずとも「想いの色」という正解があるので大丈夫で〜すは〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い。
あとは人物でまとめます。それで今度こそおしまいです🙇♀️
極上文學『こゝろ』
しばらくうごけませんでした。
うけた衝撃があまりにすごくていまも消えなくて、ずっと胸の奥が何だか重たくて、何が起こったのか分からなくてただ呆然としてしまうような、なんの言葉もくだらなく思えてしまうくらいに、なんだかうまくいえないきもちです。
みるまえから用意していた感想は、昇華された、とか、まさに極上だった、とか。いま思い浮かぶのは、最高だったとか好きだったとか感動したとか観てよかったとか、自分のあまりに限られた語彙の中ではそれぐらいしか思いつかないですが、でもなんだか、その言葉におとしこんでしまいたくないともおもうきもちです。
だからむりやり言葉にしないでほっとこうかなっておもったけれど、できるものは言葉にしておこうとおもいました。そんな感想というかふりかえりというか、整理。
👮♂️探り探りのミーハーです。
👮♂️レポではないです。詳細が分からないです。
👮♂️全てにおいて知識が浅いため、間違っていることも多いと思いますがご容赦ください。
👮♂️本文は「こころ」。
🌝前置き②🌝
『しゃばけ』のDVD(日替わり)を観ているうちに、藤原祐規さんいいなあ〜〜〜〜〜〜〜と思って、何か舞台みにいけないかな〜〜〜〜〜〜と検索したら極上文學がでてきて、ええやん! とチケットを取りました。
極上文學、その名前と過去の作品の感想などはブログなどで読んだことがあったぐらいなのですが、気になるな~~~~~とは思っていたので、藤原さん! という理由ができれば即決でした。日にちと藤原さんのお名前だけをみてチケットをとりましたが、
マルチキャストということで私が観た回は、
私 櫻井圭登さん
K 松井勇歩さん
妻 白石康介さん
先生 藤原祐規さん
語り師 沢城千春さん でした!
🌝この気持ちは何だろう🌝
冒頭に述べました通り、衝撃がすごすぎて、なんともいえないきもちです。この気持ちは何なのか。
ひとまずの仮説は、2.5をみたきもちというもの。
2.5と呼ばれないにしても原作がある舞台、そういうものを観たことはありましたが、その原作に強い思い入れがなかったので、あのキャラが目の前で動いている! という感動は知りませんでした。
小説は特に、自分の頭の中だけにその姿と声が映し出されるわけで、こうやって頭の中にだけあった世界が目の前に広がって、それをこんなにも大勢で一緒に観ている! 彼らが私たちの目の前に生きている! と、そうやって感動しているんじゃないかと自分のきもちを確かめて、
でも『こころ』にそんな思い入れがあったかな~~~~~~~~~~~~って、どこかにあるかな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜って探して、っていう茶番でごまかそうにもごまかせないほど一切無い。
ただその思い入れのなさ、というのを考えてみると、今回はじめて、『こころ』という物語に出会った。その出会いの衝撃というのが、辿り着いたひとまずの結論です。
というのも、『こころ』は、私にとってはテキストでした。
高校と大学の記憶に基づく認識ですが、高校は、おそらく多くの方がそうであったように、現代文の授業で読まされたもので、そして私たちはいつも、先生の用意した答えにはたどり着けませんでした。考えたってどうせ無駄なんだと、黒板に長々と書かれる答えをひたすらノートにうつして、テスト前に丸ごと暗記する。ただそれだけ、それだけのためのテキストだった。
大学では、ある講義で再び『こころ』が扱われました。ジェンダーについての講義でしたので、教授は『こころ』をジェンダーの観点から読み解いていきました。その時に感じた、こんなにも面白い読み方があったのか! という驚きは今でもよく覚えています。(同時にとても大切な観点を教わりました)
でも、どちらにしても、『こころ』というのは誰かに導かれ、ひとつひとつの細部を紐解かれてくものでしかなく、それまでもまたそれからも何度か自分ひとりで読んではきたものの、その時でさえ、テキストと向き合うという意識を無意識にもってしまっていた(のかなと思います)。
舞台がはじまって、先生が中心に立って、そのまわりを、Kと、奥さんと、私が囲んで立つのをみたとき。
そのとき、舞台がはじまってから感じていたもやもやが、はっきりとしました。
それは、「これは先生の物語なのか」そして「物語としてみてしまって良いのか」という疑問でした。
物語として出会うなら、映画ドラマ漫画アニメその他もろもろ、なんでも良かったのかもしれません。でも舞台を通して私は、先生を、Kを、お嬢さんを、私を、目の当たりにしてしまった。同じ生きる人間として、はじめて彼らに出会ってしまったのです。
そんな彼らの生きる舞台上のセットは、とても抽象的なものでした。
だからこそ場面をいくらでも変えられるわけですが、そのように限られた空間に、限られた照明、限られた小道具、限られた音と、非常に制限された空間において、唯一限りのないのが言葉でした。そして、目の前を生きる誰かの語るその言葉の響きを、意味を、初めて、はじめて知ってしまった。
私たちはいつも、なぜ、なぜ、どうして? と物語を求めます。でもそれを語る、その痛みを、知らないのです。
「私」は(そして観客である私たちも)何も知らないが故に、なぜ、なぜ、どうして? と先生の物語を求めました。
そして、怯え、恐れ、自分の物語を抱えこんだ先生が「私」に答えて、物語を開き掲げる、そのはじまりの言葉は、「私はもうこの世にいないでしょう」。それほどまでの、自身を語る痛みとその言葉の重さ、そして共に突きつけられる、先生の物語。
先生の物語として『こころ』に出会う時、そのあまりの衝撃に、身動きがとれなかったのでした。
演出についてやら人物についてやら思うところをつらつらと書いていたら、まとまりがなさすぎる上に長すぎてしまったので分けます。
「二度と戻らない」
(タイトル出オチで関係ないです)
考えてみると当たり前のようにそんなことばかりで、いまというこの瞬間もあっという間に「二度と戻らない」過去に変わってしまいます。
けれど、だからこそ。「二度と戻らない」この「今」という瞬間は特別な意味を持ち、きらきらと輝くのだと言う人がいます。
当たり前の当たり前だけれど、舞台は「二度と戻らない」もので、面白かった! もう一度みたい! と再びチケットを買ってみても、昨日観たものと今日観たものは何かが違う。そのことに、まだまだ舞台に慣れていないよく分かってない(のに語りたがるタイプのミーハー代表)人間(🙋♂️)は、ただただ単純に、すごいなあとおもいます。
けれど、高いな〜と思いながらも何度も足を運んだり円盤を購入してしまうのは、「もう一度」を願ってしまう気持ちがどこかにあったからなのかもしれません(🦍)
(本題🗣)
しゃばけDVDが届きました。
届いたのはかなり前なのですが、バタバタしたりドキドキしていたのでなかなか観れずに日々を過ごしていました。
そのように開封するまでの時間はかかりましたが、楽しみは先に派なので、観ようと決めましたらまず特典の日替わりを再生して早送りしました。松村さんのねこまたを観ようと思ったからです。
ホームビデオのような画質にカメラワーク、斜めの舞台、ぐらつき、そんなものはどうでもよいことでした。(※どうでもよくはないです)
ただ、あんなにもカットにつぐカットがあると思っていなかったので。
屏風覗きのお題「エロ」のダンス。松村さんのお題「人生」ダンス。ねこにゃんのお題「神」ダンス(的)。みんなでダンス。
まさか。
まさかまさか。
エロダンスも!日替わりゲストさんのダンスも!絶景のみんなでダンスも!
カット!!!!!!!
カット!!!!!!!!
カット!!!!!!!
(※気が済むまで、以下繰り返し)
なんで〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜と泣きながら、そういうものなのだと、静かに語りかけてくる声を聞いた気がしました。
(回想🗣)
はじめて座ったいちばんまえの席から見上げる舞台は、ひどく高く、その上の上のステージは、本当に高く高くみえました。そこにあらわれたねこまた(松村さん)のお姿。音楽に合わせて陽気に舞うお姿。猫耳。
それがあまりにこうごうしくみえて、はらはらと涙をながすしかない、そんな気持ちを今でも覚えています。
越後製菓を知らなかったので、全く元ネタが分からなかったけれど、ただもう楽しくて(正直はじめは周りにあわせて笑った部分もありましたが)、何がはじまるのかという緊張感にテンションがあがったこと、そのあとのダンスは、もう世界でいちばん面白いというぐらい、会場中が笑って笑って笑ったこと(私は笑いすぎて吐きそうなぐらい気持ち悪くなったことも)、覚えています。
でも、その記憶は繰り返す度に、すこしずつ、はじめの記憶と違うものへと変わっていくように感じていました。
それがかなしくて、映像として残っているならばと思って、けれどもその映像は、当然、私の記憶とは異なるものなのでした。
例えば、高く高く見上げたステージ。そんなに高くないし、そもそも舞台だって高くないんです。客席に座る方の頭が映りこむくらい。
例えば、役者さんのお顔。顔の造形というよりその表情というか。メイクも、何だか違う感じがしました。記憶の頼りなさが異常。
(🗣)
映像として形をもって記録されていたとしても、それは、あの時に見て、聞いて、感じた私個人の記憶とは異なるものです。
同じものをみても、全くちがうものが見えていているというのはとても面白いな、とよく思います。けれど、記録と記憶というのがこんなにも違うというのも、また面白いなあと思いました。
二度と観ることはできない、あの姿とその記憶。だからこそ、こんなにもきらきらと記憶されたままなのかもしれません。映像に残されてはいないけれど、だからこそ、あの時にみた松村さんのこうごうしさを、あの舞台のきらきらを、たいせつにたいせつに思い出すことができるのかもしれません。
でも映像だからこそみれるものというのはとてつもなくあって、例えば若旦那の泣いて赤くなった目やその視線の動き、背中しかみえなかったあの時の仁吉さんの表情、うしろの猫さんのわくわく具合。書ききれないですが、たくさんの新しいものをみるたびに、新しく感動できる。映像ならではです。
(結論🗣)
などと長々と書き連ねましたが、すごく当たり前のことでした!
(おちないオチ)
でもひとつの話が終わってしまうのに耐えきれないやつなので、物語が終わってしまうことに泣いてしまって最後までちゃんと観れないし、人が泣けば泣くので若旦那が泣いているのを映像で観て泣き崩れてしまうで無理、むりむり。その世界に関わる人、本当にすごいとおもう、まえにいけない、でも仕事だもんねいかなきゃよね。誰だ。
(おまけ🗣)
長々と書いて まだ続いちゃう日替わり"メモ"
・廣野凌大さん
「偉い人に好き勝手やれと」 バク転みたいなのすごい!客席にメモ渡して、に対する屏風覗き(というか藤原さん)のコメント好き。
・桑野晃輔さん
安心感! 「他に入れ物無かったの?」 コンビニ袋みたいな入れ物と屏風覗きの言葉(というか藤原さん)面白い好き。松村さんの元祖こちら「もしも〇〇が××をしたら」エチュードシリーズ(あいさつで植田さん自撮りくるのと送ってっていうの🙆。)
・深澤大河 さん
「知らない、じゃん…」本編よりこっちがすきっていうか二つあるのうらやまさまだけど、枠を片しちゃうのがつぼ。声も可愛い。
あいうえお作文(自分の良い所、好きな所を)のはじまり。深澤さんの番の時、うしろで屏風覗きが柱に手をのばしてポーズとってるのがとってもせくしーちゃんで好きです。
・松村龍之介さん
さ(略)
・芹沢尚哉さん
枠を移動してきちゃうのつぼ。出ても良い。
「物真似で女の子がキュンとする台詞」
藤原T也「じゃんけん」とてつもなく笑える。屏風覗きのターンは難しそうだったけれど、藤原Y也のときのはもうさすがのさすがにうますぎたし、突っ込みに返しにうますぎ。(好き)
最後のコメント、早送りしてたのを思わず一時停止してしまいました。みなさんまたね~両手ふり(笑顔)から、んってすました顔にして両手をにゃんちゃん、からの、いやいや、と自分で照れてくしゃっと笑うあの笑顔、ぶんちゃん!
・古谷大和
古谷さんの日替わりもう一番好き。一番とか言っちゃうけど、あの、大好きです。「キレキュンゲーム」(流行って)
「あいうえお作文エチュード」より、「玉千代ちゃんを元気にしろ 寄ってたかってゲーム」がもっと好き〜〜〜〜〜コメントイケメンじゃんなんなんだよこのギャップあとカメラ近い。ストリップ学園みます(ふじわらさん)メモ。
・椎名鯛造
「電気ペンで修行しよう」
さすがの一言。普通、電気ペンであんなにも面白くできますか?できません。
師匠! と仁吉さんに絡んでいくのも「だいじょうぶだよ」という若旦那もたのしい。植田さんにやらせようとするのは、まじで、まじとか言っちゃった、みたいなのが好きでした。でこでいけ! って、もはや怒号。笑っちゃう。リアクション可愛いけれど、不安に。でも境界線の外のことなので、面白かったですと拍手。
・川隅美慎
なんて素敵なお名前かと。
カステラちゃんと食べれるかな、ってどきどきしてしまう。ちゃんと食べながら話しててすごいと思いました。「ツイスターゲーム」はじめてみた!
小丸を渡されるところで、座り込んでお話しちゃうの、あれ本当なんの空間って笑うけど、でも仁吉さん好きだから仁吉さんじゃないけどなんだ、なにいってんだ、でも嬉しい。
・加藤良輔
「色おに」「フリースタイルダンジョン」
独自のワールドすぎて笑った、色鬼の概念を考えさせられてしまうし、ラップバトル、したい、したかった、してほしかった、そしてうたをききたかった、もっとそのうたをきかせてほしいききたいよ〜ってはなし
🔜ふじわらさん!!!!!!!!!(?)
『ポラリス』感想
とてもとてもとても今更がすぎる、のですが、やはり何かしらの形で感じたことを残しておきたいなと思い(今日がアンケートの締切らしいのでまだ行けると思いました)メモのかたまりです。
全てにおいてミーハーなので、間違っているところ、偏ったところが多々あると思います。
◎脚本・演出
とかっこをつけてみたいけれど、普通に全体の感想になります。
面白かった〜〜〜〜〜〜〜!!!!
セシルのエネミー疑惑、ナツキの失われた記憶、などなど、前作ではぼんやりとしたままの設定を上手く使いつつ広げつつも全体はしっかりとまとめられていて、優しいのと悲しいのとそのバランスかとても良くて、大好きです。
観る前は、もとは映画ということで、だからこそ可能なあの世界観をどう舞台化するのかと思ったり、またドラマCDなので、言葉だけから想像し勝手に補っている部分が多く、それに明確な姿かたちが与えられること、ある意味での正解を見せられることに緊張していました。
ですが、想像をはるかに超えるものをみさせていただきました!
あげればきりはないですが、特に、衣装、エネミー、機体と攻撃が印象に残っています。
👨🚀衣装
はじめてビジュアルが公開されたとき、正直、まじか〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜と思いました。
宇宙服というかモビルスーツというかなんというかあまりにシュール。映画のように作り込まれた画面越しならぴったりだけれど、だって舞台……で、生身の人間がこれ……と、どぎまぎしましたし、舞台がはじまったらはじまったで、うぇ〜〜〜〜〜〜〜〜いと思ったんですけど、気がついたらめちゃくちゃかっこいいやん! と夢中になっていました、という話。衣装もすごいし舞台ってすごいしスタイルはやばい。
🐙エネミー
タコさんやん🐙
というのが正直な第一印象でした。エネミーというあまりに安直な名前をつけられている敵なので、まあこれくらい分かりやすい方が(🐙)良いのかな(🐙🐙)、などと思いっきりなめきっていました(🐙🐙🐙)。
なんというか、本当に申し訳ないです。
とても良かった。泣きました。
🚀機体、攻撃
映像と肉体の演技が組み合わさって、そういうのを初めて観たのでとてもわくわくしました。舞台ってすごいな〜〜〜〜〜〜と思いました(👶)。
◎個々人の感想
🐤ナツキ・シノミヤ/山川宗一郎
先代の彼の話からはじめます。というのも、私の中では、四ノ宮那月という人物をうまく落としきれていないところがあって、掴みきれない不思議な魅力のある方と思っているからです。そんな那月が演じたナツキは、もちろん那月とよく似ているけれど、どこか違う役です。ナツキは、那月と同じように、まるで別の世界に生きているような(変な言い方ですが流してください)穏やかな話し方をするのに、その端にはどこか危うい鋭さが感じられます。
今回のナツキは(トキヤも)、前作に比べるととてもトゲトゲしていて、トキヤへの不信感(もはや敵対心)、自身への苛立ちが分かりやすく示されていました。
乙女ゲームの要素を無くしたこと、また舞台ならではの発声もそう感じた理由のひとつかもしれません。
ですが、そのように対立がはっきりとすることで、緊張感が高まり、よりシリアスな展開へと繋がっているのが良いなと思いました。
また、ナツキが記憶を取り戻した後、階段の所に腰掛ける姿がめちゃくちゃかっこよくて印象に残っています。まるで妖精さんみたいなビジュアルに、人間離れしたスタイルの良さ!
レビューでのファンサがえぐく、隣のおそらく那月担の方が何度も悲鳴をあげてらっしゃいました。 さすがです。
🤴🏽セシル/横井翔二郎
赤ちゃんすぎるし王子様すぎるし、可愛いからかっこいいまでの振り幅がすごすぎるしで、軽くしにました。
声に続き、舞台特有のオーバーな動きも理由かなと思いつつ。なんだか、前作のセシルよりも幼く見えました。初めのベイビー👶🏻ちゃまちゃま具合とエネミーに操られている時乗り移られている時のあの冷たい目とのギャップがおそろしいです。
あとは、レビューでのファンサがえぐかったのも印象に残ってます。自分の色のペンライトをふるファンの子は1人も見逃さないのはもちろんのこと、ほかの色を振っている子も隙あらば自分のファンにしてしまおう、というガッツを感じました。
でもそれはあまりにも必死という嫌味な感じではなく、なんというか、王子様というか王族というか、その権威と余裕すら感じてしまうというか。
そんなレビューで愛島セシルというアイドルの姿を垣間見たような気持ちがしました。でもそれは横井さんが演じるセシル・アイジマで、だからこその姿で。
皆様に思うけれど、あえて。横井さんがこの役を演じてくださって良かったと心から思いました。ぜひ他の演技もみたいです。
🕴トキヤ/松村龍之介
圧倒的、美。【完】
続けます。
🙆♂️前作では、トキヤは冷たいけれど、それは当然の厳しさと思いました。時代が時代だし、置かれている状況も状況。命がけの世界に自ら身を置き、戦うことを選んだというわけですから。まあでも、確かにすこし厳しすぎるかも……というのが、話が進むにつれて、ちょっと大丈夫かな……? となっていきます。
今回ははじめから、大丈夫かな?? という感じ。はじめから全く余裕がなくて、ものすごく尖っていました。そうなるだけの理由は確かにあって、けれども、はじめからそんなに飛ばして大丈夫??? というくらい(に個人的には思いました。)
だからなんですけれど、ほかの3人の話に足を止めるトキヤの姿は、なんだか無性に泣けてしまいます。何も言葉は発しないし、表情も多くは語らないけれど、『ポラリス』を思い出すとき、まずいちばんに思い浮かぶほど、印象深いシーンです。
🙆♂️あとは、ラプラスがキスするあのシーン、さすがのトキヤもその衝撃にタブレットを落とすあのシーンです!
それだけでどっと笑いがおきるのですが、そのあともタブレットをふいたり傷ついていないかを確認する感じがとても可愛い! 笑いが起きるのは嬉しい!
🙆♂️それから、ナツキとの仲直りのシーン。ふふ…ふふふ、あはははは、みたいな(?)。文字に起こすとこわいですけど、ああいう無表情のキャラが笑い出すっていうのは、ありきたりに難しそうだけれど、とてもよかったです。
🙋♂️一ノ瀬トキヤが演じたという役を松村さんが演じることをまた観ることができ、とても嬉しく思います。『JOKER TRAP』では、一般人という好青年の役を(かわいい)演じられていましたが、そのときのあの豹変した冷たい声をきいて、冷たい役もみてみたいなあと思いました。そこで期待していたものとはすこし違いましたが、新しいトキヤ・イチノセをみることができて、とてもうれしかったです!
あとはやはり横顔。最の最に美しいその姿に世界が完結してしまう麗しさに、さすがに、ちょっとキャパオーバー、っていうか発光してました。すごい!
👥ヒロインのヒロくん(👨💼)
ヒロくん😡 ヒロくんに泣かされ、レビューでペンライトを振りつつもヒロくんの後任パーティーでこんなもの振っていていいのだろうか…………………とふと真顔になり、幕が閉じて客席が明るくなって、ヒロくん……と思って劇場を出て歩いていたら駅を間違えました。
作中、犠牲となった方は他にもいます。でも、ヒロくんだけ、ずっと引っかかったままなのです。単純に悲しいという気持ちだけじゃないもやもやは、ヒロくんは何者だったのかということ。
主人公3人とヒロくんのあいだには、同じグループでありつつも明確に引かれた線がありました。
その過去も現在の葛藤も詳しく描かれることはない、はじめからおわりまで、あくまで「普通の人」であったヒロくん。
設定上しかたのないことだけれど、ぽんと出てきたと思ったら良いところどりしやがって、というきもちと、勝手に連れてこられて、わけも分からないこともばかりの中で、それではまるで死ぬためにここに来たかのような展開じゃないか、まだヒロくんのことをよく知らないというのに! というきもち。
もやもやしすぎて、ヒロくん(👨💼)じゃなく、ヒロちゃん(👩💼)だったら? と想像してみることもありました。100人いれば100通りの思いがありますから、これはあくまで私個人のきもちです。
でも、優しい世界とどうにもできない悲しいことのバランスはとてもすきでした。
ここには名前をあげていないけれど、他の方々おひとりおひとりが、本当に本当に素敵でした!
この舞台のために、いったいどれだけの方が関わっているのでしょうか。想像をはるかに超える、本当に本当に多くの方々のおかげで、このようにまた新しく作品に出会えたのだなと思うと、時におそれおおい気持ちになります。
もう千秋楽を(とっくの昔に……)迎えていますけれども、この作品がたくさんの方のもとへ届くこと、またこの作品に携わる全ての方々のさらなるご活躍を心よりお祈り申し上げます。
ありがとうございました!
映画『BLOOD-CLUB DOLLS1』感想
物語のはじまりはいつもどきどきします。
ドラマをみる、小説を読む、ゲームをする、などなど、物語のはじまりは様々なかたちがありますが、その中でも、舞台のはじまりがいちばんどきどきしてしまいます。
安くはないチケット代を払います。ずっと楽しみにしていた日がやってきます。そして指定された席について思います。自分はきちんと、物語の世界に入っていけるのだろうか。言ってしまえば、払ったお金と払う時間に見合うだけの感動を、「自分は」得られるのかどうか①
書かなくちゃいけないことが全くまとまらないので、代わりに感想を書きます。
あんな前置きをしましたが、今回は舞台ではなく映画『BLOOD-CLUB DOLLS1』の感想になります。
松村さんが主演ということで、観にいったのですが、そうでなければ観ないジャンルの作品でした。
(そもそものはじまりは、舞台を観る理由が欲しかったからなのですが、映画を観る理由も出来ました。映画を観に行くことが何気に面倒になってきているこの時代において、何ともありがたいことです。)
シリーズについて全く知りませんでしたが、まあ良いかなと、どうしても分からなければ後で調べれば良いかなと、何も知らないままで行ってしまいました。
結論から言うと、せめてWikipediaぐらいは読んでおくべきでしたし、確実にホームページは読んでおくべきでした②
以下は読んでおくべきだったあらすじの引用になります。
謎の地下闘技場「BLOOD-CLUB」では、男たちが夜な夜な繰り広げる熱闘が、多くの観客を集めていた。
ルール無用、剣闘士はいわくつきの者だらけ。
「勝ち残れたら望みが叶う、負けたら死ぬだけ」
闘技場には裏社会を統治するリーダー・蒼炎と、七原文人の影がちらついていた。
政界とのつながりを強めながら何かを画策する彼らの動向を、権力の中枢・有栖川家の令嬢、みちるが探る。
みちるの美貌に魅了される蒼炎、しかし彼女の熱い視線は、闘技場に送り込まれた新たなチャレンジャー・藍刃へと注がれる……。
文人を追って東京に辿り着いた小夜だが、闘技場には既に、七原の手先として動く彼女の姿があった。
服従と反発、どちらが小夜の本当の顔なのか?
藍刃の事件に見え隠れする「古きもの」の血の片鱗、執念で真相に迫らんとする警視庁の刑事たち。
いにしえよりこの国を覆う、夜の闇が明ける朝は来るのか?
ちなみにあらすじが全てです。
せっかくですので、観て良かった! と思ったことを記録しておきます。
🙆♀️アクション!
作中の人々はよく戦いますが、そのアクション! 映像ならではの迫力! ぐるんぐるんのカメラワーク、音、光! ③ ということで、良かったです。ホストのお客様のアクションも面白かった。まさかまさか、と笑っちゃいました。
🙆♀️役者さんがかっこいい!
知らない方もいらっしゃったのですが、例え少しの出番としても、そこでがっつりと爪痕を残してくれる役だし、それだけの演技をみせてくださいます。もちろん、女性陣の活躍もがっつりのばっちりです④ 小夜はもちろん、お嬢様の黒崎真音さん、最高の至高。それからテレビなどでよく見かける勝手にお馴染みの方々。やはり画面に映ると安心します。刑事さんのシーンは数少ない笑える場面でしたので好印象度がアップです。
🙆♀️松村さん!
蒼炎と、を演じる松村さん。割合としては4対6くらいでかっこよ〜〜〜〜〜と思っておりました⑤
映画館の大きなスクリーンにアップでうつるお顔の美しいこと! あまりにアップなので毛穴とかひげとかまでみえそう、っていうかみえるけれど、それすらも、人間だ……と感動させられました。
それから、総理大臣との食事シーン! あんなにも一つ一つの所作が美しい食事シーンはみたことがありません。そのあとの夜の紅葉とのセットはあまりにも絵画。
蒼炎は、ホームページによれば裏社会を取り仕切っているそうですが、裏社会でのいかにもな怖い話し方(好きな額を書け、とか、処刑しろ、とか、何分だ⤵︎というように語尾を下げる言い方とか)、表社会でみせるさも誠実そうな話し方(総理大臣に対してのあれ)、ふとした瞬間の仲間への話し方、とあって、そのふとした瞬間の話し方(穏やかで優しいタメ口)が無性に耳につきました。
松村さんについては4月に知ったばかりで、それからのたった数ヶ月間の作品でさえ、全てを観れてはいません。それにも関わらず偉そうに言ってしまうと、毎回様々な役を演じていらっしゃり、本当にすごいなあと、ただただ感心させらればかりでした。けれど思い出してみると、タメ口の役を演じられたのを観たことがありませんでした。そのため、タメ口がとても新鮮に聞こえました!
ただ、その例として覚えてるのが「嫌な予感しない?」だけなのですけれども、しかし、その言葉の響きは、何とも良い響きです。
もし好きな役者さんが出演されていようでしたら、とてもお勧めしたい作品とおもいます。それくらいに出ている方全員が魅力的です!
ストーリーを追いかけ理解しようというよりは、キャラクターの魅力を感じることに集中したら良いのかな? と個人的には思います。考えるより感じるというあれです。
もちろん、人によって感じ方は様々と思いますので、ぜひたくさんの方の様々な感想や解釈をきくことができたらいいなあと思います🙆♀️
順々に上映されていくということですので、たくさんの方が観る事ができますように🙌 ⑥
①新宿バルト9は、毎週水曜日がレディースデイ。女性の方はなんと1100円で観る事ができます。学割よりも安くなるので、学生(女性)の方はお気をつけください。その他にも夕方割りがあります。お得!
②七原文人
③あえて見えないようにしているのだとは分かってはいるんですが、蒼炎のアクションシーン、あまりにも暗すぎて見えないというか、あの、あまりに見えなさすぎる……何ならカメラぐるんぐるんしなくて大丈夫なので!!!せめてもう少し光をあてて見させてくださいというか本当に謎の極みすぎるというか蒼炎の貴重なアクションシーンなのに見えないなんて謎の極みを極めすぎちゃってる。謎。
④刑事さんの部下3人グループにおりました女性の扱い(残り2人は男性)が、後編のキーパーソンであることを願ってしまうほどの扱われ方なのが気になりました。刑事さんが男性部下2人に向かって話す際に、彼女、完全に背を向けられているしひとつの画面におさまりきれてないしセリフはどこにいった?? 状態なのに当然のようにお酒をつぐのは彼女なのがびっくりです!
⑤4は正直盛ってます。7割近くは松村さんのお顔が美しいと観ていました。というのも、蒼炎が分からなさすぎる! 見終わったあとにあらすじを読み、みちるの美貌に心惹かれたというところで笑ってしまいました。蒼炎は基本的に表情が変わらないのですが、みちるに会った時に、その作られた表情が少し崩れたこと、「有栖川みちる、か……」と夜景を眺めながら呟いていたこと、総理からみちるさんのお名前が出されるとその腰を上げていたこと……。有栖川みちるとは蒼炎にとって何であるのか、その答えは後編で明らかにされると思っていたので、心惹かれたって、答えはとっくに書いてあったんかいって話ですよこれは。これはまじです。観ていても絶対分からないです。あの世界観で、それは絶対に分からないです。本当です。自分の読解力の無さを完全に人のせいにしてるけど、蒼炎をはじめとして誰もかれも分からなかった。分からないけれど、でもみなさんかっこいいので、より多くの方に観てほしいし、より多くの方の感想、考察、解説をぜひ聞きたいなあと思う次第です。
⑥ぜひみてほしいです
特別な誰かではないけれど
この前、俳優さんへのインタビューの記事を読みました。作品に全く関係の無い、好きなファッションはという質問に、その方はシンプルな服が好きと答えていました。また、自分が着るものだけじゃなく、女性に対しても、女の子らしいふりふりの服ではなくて、シンプルなのが好きですとありました。
いにしえより、主にアイドルをはじめとして、人前に立つ職業の方々へ、言葉を変えて何度も何度も繰り返されてきた質問。答える側も、質問する側も、それを読む側も、もう飽き飽きしている(方もいらっしゃるかもしれない)ように思うのですが、何度も何度も繰り返されていくのは、その答えを知りたいと思う人(が、たくさんいると思う人)が実際にいるからで、じゃあ私はというと、両方の気持ち、どちらもあります。
以前、あるアーティストの方がとてもとても好きで、その時は、女の子のどんな服が好きなのかを知りたくて知りたくてたまりませんでした。
ですが、そのような質問をされているのを見たことも読んだことも無かったし、その方が自らそのようなことを話すような機会も特に無かったです。代わりに、その方自身が着るものとして、どのような服が好きなのかはその身をもって、また時には明確な言葉をもって発信されていました。具体的には、ある特定のブランドでいつも全身をかためていて、それはもちろん、私などでは到底買えないようなハイブランドです。
ファッションに疎すぎるので、どういうことなのかと理解できないことがたくさんありました。けれども結局は、その方が着ているもの全て、その方が着ているからという理由でかっこいいと思うことに落ち着きました。
そしてそんなふうによく分かっていないのに、勝手に想像して、こういうことなのではないかという桁違いの服を買って、似てる!(似てない)桁違いのイヤリングを買って、ブラウンのアイライナーを漆黒のブラックにして、びっくりするような色のリップを買って、髪を染めました。
その方の黒髪へのこだわりは後々知ることになり、そんな明らかなことさえ間違えていた、すなわち、もう全てが見当違いでしたという、まじわろたな話なのですが、私にとってはもうひとつ、なんだか、無性に楽しかったなあと思う話でもあるのでした。
左手の薬指の指輪に言及する前に、すれ違うことすらない赤の他人という真理の前に、まず、絶対に視界に入ることがない席という揺るぎない、事実があります。
けれども、その席に座るために、その方はどのような女の子の服が好きなのだろうかと悩みに悩んで、勝手に決めつけて、新しく買った桁違い(に安い服)にチークをなしにしてお化けみたいなメイクをしていくのがめちゃくちゃに楽しかったのでした。
どんなに可愛い服を手にしてテンションがあがっても、鏡に映る自分を見る度にすぐに落ち込んでしまうから、なるべく無難な服、無難なメイクを求めていました。服に見合うだけの努力をすることからも逃げていました。
でもそれってやっぱり、と思います。全然楽しくないです。
完全な自己満足で終わったけれども、わくわくして服を選んで、どきどきしてメイクをして、足をひねりながらもびっくりするような厚底靴を履くのは(ライブではもちろんだめですので普通の日に履いて、そして盛大に足首やりました👋)、とってもとてもとてもとてもとても楽しくて、その楽しさに出会えたこと、そのきっかけをもらったこと、今も勝手に感謝しています。
月日はたち、ミーハーの私はその方自身への熱烈な気持ちは薄れていってしまいました。いまもその方の作品は好きですが、服を選ぶ時にその方を思い浮かべることは無いし、ブリーチした髪は切ってしまったし、柔らかいブラウンのアイライナーでさえひかないこともあるし、その一方でピンクのチークは毎日愛用しています。
先日、友人に誘われて舞台を観にいったとき、いつも可愛い友人がさらに可愛らしくしているのを、また、近くに座る女の子達がふりふりのとても可愛らしい洋服を着ているのをみて、なんだかきゅんとして、そして、ふわふわとした気持ちになりました。
着飾る理由なんて様々で、舞台を観に行く理由だって様々ありますけれども、特別な人の特別な日に、特別な格好をするというのは、やはりなんだか、とてつもなく素敵です。
私はたぶん、好きな人がシンプルな服が好きだからといって、私もシンプルな服を着ようという、そんな気持ちには悲しいことになれない(シンプルな服はその人の素材が良いからこそ映えるものですね)のですが、でもそれを読んで、そういうことを思って服を選ぶ方がいらっしゃったら、なんだかいいなあと思います。
特別な誰かの特別な日を、特別に可愛くて素敵な自分をもって迎えるということ、何よりもそれは、とてもとてもとてもとても素敵で可愛くて最高すぎることです。
たとえば、普段ふりふりの服を着ている方が、特別な人の晴れ舞台に、その中で特別に選んだふりふりの服を着ているのも、シンプルな服が好きというからその好みに合わせて普段は着ないような服を選ぶのも、その人の印象をファンの姿を持ってさらにも良くしようと万人受けするような格好を試みるのも。きっと他にも全て。
私は「特別な誰か」ではない、ただのミーハーなので。ただ、友人があまりに可愛かったので。「特別な誰か」ではないけれど、すごく可愛いって思っておりました、という雑記でした。