これやこの

ミーハー

極上文學『こゝろ』

しばらくうごけませんでした。

うけた衝撃があまりにすごくていまも消えなくて、ずっと胸の奥が何だか重たくて、何が起こったのか分からなくてただ呆然としてしまうような、なんの言葉もくだらなく思えてしまうくらいに、なんだかうまくいえないきもちです。 

みるまえから用意していた感想は、昇華された、とか、まさに極上だった、とか。いま思い浮かぶのは、最高だったとか好きだったとか感動したとか観てよかったとか、自分のあまりに限られた語彙の中ではそれぐらいしか思いつかないですが、でもなんだか、その言葉におとしこんでしまいたくないともおもうきもちです。

だからむりやり言葉にしないでほっとこうかなっておもったけれど、できるものは言葉にしておこうとおもいました。そんな感想というかふりかえりというか、整理。

👮‍♂️探り探りのミーハーです。

👮‍♂️レポではないです。詳細が分からないです。

👮‍♂️全てにおいて知識が浅いため、間違っていることも多いと思いますがご容赦ください。

👮‍♂️本文は「こころ」。

 

 

🌝前置き②🌝

しゃばけ』のDVD(日替わり)を観ているうちに、藤原祐規さんいいなあ〜〜〜〜〜〜〜と思って、何か舞台みにいけないかな〜〜〜〜〜〜と検索したら極上文學がでてきて、ええやん! とチケットを取りました。

極上文學、その名前と過去の作品の感想などはブログなどで読んだことがあったぐらいなのですが、気になるな~~~~~とは思っていたので、藤原さん! という理由ができれば即決でした。日にちと藤原さんのお名前だけをみてチケットをとりましたが、

マルチキャストということで私が観た回は、

私 櫻井圭登さん

K 松井勇歩さん

妻 白石康介さん

先生 藤原祐規さん

語り師 沢城千春さん でした! 

 

 

🌝この気持ちは何だろう🌝

冒頭に述べました通り、衝撃がすごすぎて、なんともいえないきもちです。この気持ちは何なのか。

ひとまずの仮説は、2.5をみたきもちというもの。

2.5と呼ばれないにしても原作がある舞台、そういうものを観たことはありましたが、その原作に強い思い入れがなかったので、あのキャラが目の前で動いている! という感動は知りませんでした。

小説は特に、自分の頭の中だけにその姿と声が映し出されるわけで、こうやって頭の中にだけあった世界が目の前に広がって、それをこんなにも大勢で一緒に観ている! 彼らが私たちの目の前に生きている! と、そうやって感動しているんじゃないかと自分のきもちを確かめて、

でも『こころ』にそんな思い入れがあったかな~~~~~~~~~~~~って、どこかにあるかな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜って探して、っていう茶番でごまかそうにもごまかせないほど一切無い。

 

ただその思い入れのなさ、というのを考えてみると、今回はじめて、『こころ』という物語に出会った。その出会いの衝撃というのが、辿り着いたひとまずの結論です。

というのも、『こころ』は、私にとってはテキストでした。

高校と大学の記憶に基づく認識ですが、高校は、おそらく多くの方がそうであったように、現代文の授業で読まされたもので、そして私たちはいつも、先生の用意した答えにはたどり着けませんでした。考えたってどうせ無駄なんだと、黒板に長々と書かれる答えをひたすらノートにうつして、テスト前に丸ごと暗記する。ただそれだけ、それだけのためのテキストだった。

大学では、ある講義で再び『こころ』が扱われました。ジェンダーについての講義でしたので、教授は『こころ』をジェンダーの観点から読み解いていきました。その時に感じた、こんなにも面白い読み方があったのか! という驚きは今でもよく覚えています。(同時にとても大切な観点を教わりました)

でも、どちらにしても、『こころ』というのは誰かに導かれ、ひとつひとつの細部を紐解かれてくものでしかなく、それまでもまたそれからも何度か自分ひとりで読んではきたものの、その時でさえ、テキストと向き合うという意識を無意識にもってしまっていた(のかなと思います)。

 

舞台がはじまって、先生が中心に立って、そのまわりを、Kと、奥さんと、私が囲んで立つのをみたとき。

そのとき、舞台がはじまってから感じていたもやもやが、はっきりとしました。

それは、「これは先生の物語なのか」そして「物語としてみてしまって良いのか」という疑問でした。

 

物語として出会うなら、映画ドラマ漫画アニメその他もろもろ、なんでも良かったのかもしれません。でも舞台を通して私は、先生を、Kを、お嬢さんを、私を、目の当たりにしてしまった。同じ生きる人間として、はじめて彼らに出会ってしまったのです。

 

 

そんな彼らの生きる舞台上のセットは、とても抽象的なものでした。

だからこそ場面をいくらでも変えられるわけですが、そのように限られた空間に、限られた照明、限られた小道具、限られた音と、非常に制限された空間において、唯一限りのないのが言葉でした。そして、目の前を生きる誰かの語るその言葉の響きを、意味を、初めて、はじめて知ってしまった。

 

私たちはいつも、なぜ、なぜ、どうして? と物語を求めます。でもそれを語る、その痛みを、知らないのです。

「私」は(そして観客である私たちも)何も知らないが故に、なぜ、なぜ、どうして? と先生の物語を求めました。

そして、怯え、恐れ、自分の物語を抱えこんだ先生が「私」に答えて、物語を開き掲げる、そのはじまりの言葉は、「私はもうこの世にいないでしょう」。それほどまでの、自身を語る痛みとその言葉の重さ、そして共に突きつけられる、先生の物語。

 

 

先生の物語として『こころ』に出会う時、そのあまりの衝撃に、身動きがとれなかったのでした。

 

 

 

演出についてやら人物についてやら思うところをつらつらと書いていたら、まとまりがなさすぎる上に長すぎてしまったので分けます。