極上文學『こゝろ 』②演出について
感想②です。個人の感想です。個人というのはミーハーです。どれくらいのミーハーかといえば、「1+1=?」という問題を考え、「2です!」と立ち上がって答えるぐらいのレベルのミーハーです。
そんなミーハーにとって、演出脚本についての大きな問いは『こころ』をどう舞台へすくいあげてみせるのかということでした。かっこつけようとしないで(つけられてない)言いま〜〜〜〜〜〜〜すあの長い話をたったの90分にどうおさめんのよって(いやこれミーハーとか言わずにみんな思うこと🤦♀️)
長い小説としましたが、もし仮に、『こころ』について、長い、長すぎる、と、だから端的に教えて欲しいと、(🙅♀️ぜんぜん長くない 🙅♀️そんなこと聞かれない)『こころ』ってどんな話? と聞かれれば、「三角関係の話」と答えるし、「結果どうなったの?」と聞かれれば「裏切られた方は自殺して裏切った方も自殺した」と答えます。でも、それだけ? とがっかりされたならば、CiNii Articlesをひらいて「夏目漱石 こころ」と検索してみせます。
いやいやなんでよってレベルのヒット数、決して数字信仰ではないですが、タイトルを見るだけで『こころ』は(いや分からんですけれども)、ありとあらゆる領域、ありとあらゆる観点から研究されていることが分かります。そこにはそれだけの要素が詰まっているのです。
仮に、『こころ』を原作にしました、という舞台ならばどうでしょう。けれどもこれは、「極上文學」とわざわざ名乗りを上げている。
「文学」とは? 分からないですが、少なくともそれはつまりあの長い"話"(=ストーリー、展開、物語)をどうおさめるか、ではない。あの要素たち(=私には訳の分からんものたち)を、どこまで、そしてどのように、沢城さんのお言葉を借りていえば、「文学に馴染みのない人」(🙋♀️ハイッ)を相手にみせるのか。
などと偉そうにダラダラと書き連ねて、じゃあどうだったのかといえば、分かりません。そのままの意で分からんでした。だってそもそも「要素」というのが私にとっては訳分からんのものなのでどうなっていたかなんて(やばいやばい)誰か教えてください(案件)。
なのでここからは()つき。
自分の知っている観点は、教科書(うろ覚え)とジェンダー(聞きかじり)という語るにあまりに危険な状態なので。
ひとつ耳に引っかかったことがあって、それはKの、"女の歩く速度が男の2分の1"(ニュアンスです。うろ覚え🙇♀️)という(感じ)の言葉。
このセリフは、Kとお嬢さんが夜道を2人で歩くシーンであり、それはKがはじめてお嬢さんという"異性"にはじめて出会うシーンです。彼の語る言葉から滲む、はじめての驚きと戸惑い、「月がきれいですね」などというパワーワードに、甘い気持ちで流してしまいそうになりますし、お嬢さんのあの服、あれは早く歩けない構造になっていますので、それは実際にそうだったのかもしれません。
けれど、女は、とくくる虚しさも含めて、どこか引っかかる。
その引っかかり具合が、上手いなあと思いました。あれは原作には無い言葉ですが、おそらくそれに当たる(であろう)言葉を探してみると、ものすごい勢いで「ん?」となる。最近世間を賑わすアレに通じる「ん?」です。つまり怒りと呆れ。物語に身を置くことを拒んでしまうほどのそれ。ですのでただ物語としてみせたいのならば、それは消してしまえば良いと思います。けれど、「そんな時代は無かった」ではなく、「こんな時代があった」というのをそのままに示すことは意味があると思うし、何よりそれもまたひとつの要素だと思うのです。
私が分からないだけで、きっともっとあると思いますが、優しく分かりやすく、でもどこかに引っかかるような、割り切れなさを残すその方法が、個人的にはいいなと思いました。
あとはまとまらなさすぎるので、以下特に印象に残る(引っかかり取っかかり)演出についてメモ✍
キーワードは、「猫」「月がきれいですね」「イチョウ」「裸」。
🌝「猫」🌝
#夏目漱石#吾輩は#可愛いの権化#猫である
はじまるまえから具現師さんがロビーやら客席やらで「何か」として「何か」をしてる、ということは聞いていましたが、答えは「猫」でした🐈 それも"本気"の猫(とは)。
夏目漱石、猫、と来れば全員の頭の中には同じタイトルが浮かんでいて、だからもう開演前のアナウンスで「吾輩」を聞いた瞬間のあの歓声(笑)。まじ半端なかったッスよね(大嘘)。
とはいえ「語り師」である「吾輩」に対して、『こころ』の世界に突如現れた「猫」、とではなく、来るかな? という期待に応えて現れた「猫」と、観客(🙋♀️)の受ける印象がさりげなくすり変えられていたのは事実です。
では「猫」、その意義は?
答え 可愛い🐈(全肯定)
語り師である沢城千春さん(私が観た回です)。沢城さん、溢れ出る"あの"感じが個人的にも本当に好きですが、おそらく沢城さんのファンなのだろうなと思う方々をお見かけました。そして他の回にももちろんその日だけの「語り師」さんを理由に観に行く方々はいるはずですると語り師さんが"可愛い"というのはとても有意義であると思うわけです(早口)
さすがに猫耳やら「にゃん♡」やらはアレですのでそういうことではないと前置きをしつつ、あのつんつるてんな衣装に添えられるしっぽはやはり可愛いし、何より、いやそもそも、大前提となる猫という設定の圧倒的な"可愛い"パワーたるや、猫にまつわる全ての概念は愛であるわけです。
ちなみにこの「猫」は語り師だけでなく、読み師である「私」をも可愛くしてしまうという偉大なる猫ちゃまであらせられます。
「私」の可愛さとは? 原作は前半と後半で語り手が変わりますが、前半は「私」(もう良い大人)が、先生との思い出を振り返る構成になっています。この「もう良い大人」(勝手な認識)とは、言い換えればこの「私」にとって、先生との出会いから別れは思い出ということで、もうそこにはかなりの距離があるわけです。だからこそうまれる批判的な気持ち(etc)=可愛くないもの(案件式)。
しかし語り師(猫)がその語りを担うことにより、「私」は"過去を振り返る"ではなく"今を生きる"「私」となり、先生と出会い、惹かれ、純粋にそして残酷に物語を求める。若さにあふれるあまりに前のめりな「私」=可愛い=好き(解決)。「私」から思想的なハナシなどを浄化(やはりいちいち案件…)することで、その展開を、より"物語的"にみせているような印象です。
浄化された彼らはどこに?それはさすがの猫ちゃま、「吾輩」が引き受けます、しかしさすがの「猫」ちゃま、「難しいことは分からぬ」(いやもうこれ天才?)(それとも案件?)
「猫」ちゃまの語る、「人間は」という、自分と異なる種族を一括りにする語り方。Kの"女は"の虚しさを思い出しますが、しかし何とも対比的に、虚しさの欠片もないこの語り口調。それ即ち「猫」故に。
極めつけはこのラスト。分からない、だが「嫌いにはなれない」。ハイ陥落。いやまじ猫ちゃま。
🌝「月がきれいですね」🌝
#客寄せパンダ#匂わせ注意報
⚠️パンダに敵意はないです
本当かどうかはさておき、現代においてもはや使い古されたともいえるほど、この言葉、このフレーズのみを切り抜き都合良く使われるのが本当に嫌で嫌で仕方が無かったガチ厄介、まあ言い換えればミーハーがそんなふうにのたうち回れるほどにこの世の中に浸透した「I love you」は即ちパンダ🐼。
作中、奥さんが何度も繰り返す、「今夜は月が綺麗ねえ」。匂わせてんな? と思っていますと、Kとお嬢さんが2人で夜道を歩くシーンです。2人は客席をぐるりとまわったあとに、舞台へあがり、そして夜空を見上げます。
すると、お嬢さんの白くてつややかな肌が照らされて。うっとりと月を見上げるお嬢さんは、本当に吸い寄せられてしまうほど綺麗で、「綺麗だ」と、あのKがおもわず零してしまうのもわかってしまう、のだけどお嬢さんは、「え?」と聞き返して、だからKは言葉に詰まってしまう。そして、「月が、きれいですね」というのです。
するとお嬢さんは、「ええ、本当に」と、ゆっくりと丁寧にうなずいて、って、
いやもうだからそういうの大好きじゃん?
まーーーーーーーじでまじでまじでまじで二次創作読むようなオタク(🙋♀️ハイッ)は好きに決まってんのね、いやこれまじね、いやあの猫ちゃまあのまじこれまじだからまって嫌いにならんで(土下座)。
言うなればこれはファンサービス。ほ〜れ好きやろ? っていや好きですけど💢💢 あまりに文脈が完璧すぎだしKに言わしめてしまうの完璧すぎだしKだから言えんのだしまじであの状況だからだしまじでもうあのだからつまりあの大好きです💢💢💢💢💢
は〜〜〜〜〜〜〜ファンサに殺される…ともうひとつ、もうひとつ、それはお嬢さんのこころに意識を向けさせる……効果が……………ない??? ないの?????(息絶えだえ)あって〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!
こちら側はその会話の意味を、つまり愛の告白とその受理を勝手に読み取って尊い…って合唱しかけてふと、この会話にそんな意味があったのかって我に返るんです。
Kの言葉は確かなそれ、でも、お嬢さんのそれは? お嬢さんは、誰が好きだったのか。嫌いな男性と夜に回り道しようなんて言わないでしょうから、好意は持っていたとは言えても、その好きは何の好き? エッ少女漫画とみせかけての何だこれ??
思い返すのは繰り返される、月が綺麗ねえという言葉。あれ、先生は答えたんだっけ? 覚えてな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜いなんで覚えてないの〜〜!!!!!!!!!!!!!!!
🌝「イチョウ」🌝
#銀テープ#花言葉#ぱっくんちょ#サプライズ#視覚的プレゼント#今更だけど#あれって#イチョウ#だよね?
イチョウの黄色は見上げた月の色でありますが、その花言葉は鎮魂なのだと、願いと共にお嬢さんから手渡されるイチョウ(盛大なるフラグ)であり、客席に舞い降りる(銀テープならぬ)イチョウであり、そして最後、先生とKを飲み込むイチョウであるのです。そして回収される、"花言葉は鎮魂"。
つまり、あまりに完璧ということ。
先生の最後をあのような形でみせるというのは舞台ならではの方法と思いますが、同時にあんなにも美しい形でみせてしまって良いのかなとも思いました。それぐらいに画としてあまりに美しすぎて、そうだ、このためだった、と思ってしまうほどの画だったので。でもこれは客席に座って見上げていないと分からない感覚と思います。映像の方がよりその美しさは見えるかもしれないけれど、それを全身に体験できるのは舞台だけなのでやっぱりこれだけでもう観て良かったなって思っちゃうっていうかなんていうか(以下ループ)
はっと息が止まるほどの衝撃に、そのあとの「吾輩」の台詞が聞こえなかったのですが、それはご愛嬌で(いや配信で🙆♀️)
🌝「裸」🌝
#釣りタイトル#素肌#こころ#絵の具#女性と思ってたら男性だった#びっくりした
上半身を脱いで色をつけていくあのシーンのことです。
極上文學「こゝろ」に平野良「見目麗しい男子たちのあんな姿やこんな姿が」 - ステージナタリー
をそのまま参照に(Twitterのはりかたわからんでした)
これはどう足掻いても、そのインパクトです。平野先生のお言葉と、それがまさしく(釣り)記事タイトルになっているのがその証拠。観客に対しても、エッと食いつかせる釣りのエサ。
そして考えさせられます。
なぜ脱ぐのか。
……というのは、いったん冷静になって、原作で先生と「私」との出会いの場が海だったことを思い出してみたりするわけです。
海という場は、赤の他人に肌をさらすことを当たり前にしてしまう異常な場ではありますが、その無防備なまでにさらされた肉体と、かたく深くとざされたこころの対比、というのが、教科書的な観点からの読み取り(うろ覚え)だったはず(?)。
つまり、原作でははじまりに提示された肉体とこころという対比を、この舞台ではクライマックスに持ってきたということであり、服を脱ぐということは文脈に乗っ取った演出である(と自分を納得させてみる)(まじでびびりまくったので)(あくまで個人の意見)(もっと素直な解釈があるしそっちの方が正解と思います)(知らんですが🙅♀️)。
本題は、塗料演出(塗料は絵の具じゃないかもですがそれはノリ🙅♀️)についてです。
あの色は"想いの色"と明瞭な答えがありますが、私はそれを"言葉以外の"こころと解釈しました。
先生の語る言葉があります。そして、その言葉の意味を超えて伝わるこころがありました。語られない言葉があります。そして、語られないままに伝わってしまうこころがありました。
言葉にならない、言葉にできない、言葉を与えられていない、こころ。
小説は言葉からなるもので、だからこの『極上文學』においても本の「言葉」は非常に大切にされていますが、こころはどうなのでしょうか。私は🎩ファンなので、ならって言葉の前にこころがあると思うしそれを大事に思いますけれども(適当)、言葉に(しないのかできないのか何なのか分からないけれど)ならないこころを、無理やり言葉に落とし込むのではなく、そのまま言葉以外の形、つまり色をもってあのように視覚的に"みせる"というのが、舞台ならではの方法(ならではって言いたかっただけ😬)と思いました(言えた😉)
そしてそれらがまわりの人々のさらされた肉体(奥さんは手というさらされた肉体)を染めあげていくというのは、なんとも抽象的にみえて実は具体的な描写のようにも思いました、とかとかいって! なんてぐるぐる考えずとも「想いの色」という正解があるので大丈夫で〜すは〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い。
あとは人物でまとめます。それで今度こそおしまいです🙇♀️